最近、精神科医の泉谷閑示先生の書かれた「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」を読みました。
読みながら、「ああ、自分がうまく言葉にできなかった感覚が書かれている」と何度も感じました。
興味を持った方は、ぜひ一度読んでみてください。
常勤を辞めて生まれた「余白」
常勤を辞めて最初に感じたのは、「時間の余白」が生まれたことでした。
以前は、仕事を回すこと、次の予定をこなすこと、効率よく処理することに意識が向いていました。
特にひどい時には、休日に楽しい時間を過ごしていても、頭の中では仕事のプレッシャーについて考えてしまうことがありました。
何のために生きているのだろう、と思うような感覚です。
今は、少し立ち止まって、
「自分は本当は何をしたいのか」
を考える余白があります。
その日の気分で本を読む。アニメを見る。映画を見る。漫画を読む。
散歩する。運動をする。
コーヒーを飲む。
将棋をさす。
子供の遊び道具を手作りしてみる。
そういう時間が増えました。
一方で、不思議なことに、時間に余裕ができてもなお、「もっと生産的であるべきではないか」という焦りは時々顔を出します。
もっと稼げる働き方があるのではないか。
もっと効率化できるのではないか。
この過ごし方は遠回りではないか。
そういう感覚は、簡単には消えません。
本書でいう「有意義病」は、かなり深く身体に染み込んでいるのだと思います。
「意味」と「意義」は違う
本書の中で特に印象に残ったのは、「意味」と「意義」は違う、という話でした。
「意義」は、社会的価値や生産性につながるものです。
役に立つ。
成果が出る。
成長につながる。
お金になる。
現代社会では、数値化しやすく、他人からも見えやすい「価値」ばかりを追いかけてしまいがちです。
しかし、「意味」はもっと主観的なものだと本書では語られています。
他人から見て価値があるかどうかではなく、自分がそこに感覚的な充足を感じられるかどうか。
散歩が楽しい。
ぼーっとする時間が好き。
何かに夢中になれたと感じる時間がある。
料理をする。
本を読む。
子どもと遊ぶ。
そういうものの中にも、「意味」は存在します。
遠回りすることで感じる生活実感
子育てをしていて、以前より強く感じることがあります。
たとえば、ベビーフードを使えば早い場面でも、あえて手作りしてみることがあります。
もちろん、料理を日常的にしている人から見れば大したことではないかもしれません。
それでも、自分なりに野菜だしを取ってみたり、工程を工夫してみたりする時間には、不思議と生活実感がありました。
もちろん、効率だけを考えれば合理的ではありません。
時間も手間もかかります。
でも、野菜を刻み、作って、食べる姿を見る。
そういう時間の中で、自分はむしろ「生活している感覚」を強く感じていました。
何か大きな成果を出しているわけではありません。
生産性が高いわけでもありません。
それでも、その時間には確かに「意味」があります。
現代では、とにかく早く、便利に、効率よく、が求められます。
でも、人間は効率化だけでは満たされないのだと思います。
少し不便で、少し遠回りで、無駄にも見える時間の中にしか感じられないものがあります。
「何者かになる」ことよりも
本書の終盤では、「遊び」の感覚について語られていました。
私たちはつい、
継続しなければ。
成果を出さなければ。
意味ある時間にしなければ。
と思ってしまいます。
でも、本来はもっと気軽に、何かと戯れてもよいのかもしれません。
文章を書く。
相場を見る。
本を読む。
子どもと遊ぶ。
運動をする。
それらを、「何者かになるため」の手段としてではなく、ただ人生を味わう行為として持つ。
人生を最適化することと、人生を味わうことは、必ずしも同じではない。
この本を読んで、腹に落ちる言葉が多くありました。
まだまだ「有意義であらねば」という感覚は自分の中に残っていますが、少しずつ、「人生を味わう」という感覚を取り戻していきたいと思っています。
